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1993.05.31


5月31日
1993.05.31
 エリザベス戴冠から40年、色々とご苦労さん。

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【今日は何の日】5月31日
▲シベリア横断鉄道工事開始(1891)

シベリア鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シベリア鉄道(シベリアてつどう、露:Транссибирская магистраль )はロシア国内を東西に横断する鉄道。全長は9,297kmで、世界一長い鉄道である。これとは別に、第二シベリア鉄道(バイカル・アムール鉄道、バム鉄道)もある。

概要
正確にはロシア連邦中南部に位置するチェリャビンスク州のチェリャビンスクからシベリア南東部の沿海州にある日本海岸のウラジオストクまでの7,416kmの区間を指すが、一般的にはその他の路線も含めたモスクワ~ウラジオストク間9,297kmを指す事が多い。モスクワからシベリアまでは、従来はモスクワから北東へ向かうモスクワ~ヤロスラヴリ~キーロフ~ペルミ~エカテリンブルク経由の路線を使っていたが、2000年代以降はこれより南寄りのモスクワ~ウラジーミル~ニジニ・ノヴゴロド~キーロフ~ペルミ~エカテリンブルクの路線が使われる。さらに南寄りのモスクワ~ムーロム~カナシ~カザン~エカテリンブルクの路線、モスクワ~リャザン~サマーラ~ウファ~チェリャビンスクを経由する路線もありうる。「ロシア号」はモスクワのヤロスラヴリ駅を出発し、ウラジオストク駅まで約7日間をかけて走破する。
ロシア語では、モスクワ~ウラジオストクを結ぶ本線(広義のシベリア鉄道)を "Транссибирская магистраль"「シベリア鉄道」 と呼ぶほか、モンゴル国のウランバートル経由で北京まで結ぶ路線を "Трансмонгольская железная дорога"「モンゴル鉄道」 、中国東北部経由で北京まで結ぶ路線を "Китайско-Восточная железная дорога" 「東清鉄道」と呼ぶのが通例である。以上3つが更に広義のシベリア鉄道である。
航空機が登場する前は、日本とヨーロッパを結ぶ欧亜連絡運輸において最速の交通路でもあった。その後、第二シベリア鉄道と呼ばれるバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)も建設された。
東洋と西洋をまたぐ路線であるために中国、北朝鮮、モンゴルとの直通運転がある。国境を越えると人種や文化、景色も大幅に変わる事を魅力と感じている人も多い。

建設
1891年に建設を開始し、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進めた。軌間は1524mm(後に1520mmに改める)の広軌を採用した。これには、「1435mmの標準軌を採用した欧州と同じにするとナポレオンのような侵略者に使われれば脅威になると考えた」「皇帝の招いたアメリカの技術者が広軌論者だった」など、さまざまな説がある。
建設はアメリカ横断鉄道同様、路線の両端から開始された。東の終点のウラジオストクからはウスリー川に沿ってハバロフスクまでの鉄道、ウスリー鉄道がまず建設された。西では1890年、ウラル川を超える橋が完成し、鉄道がヨーロッパ・ロシアを過ぎてアジアに到達した。オビ川を渡る橋は1898年に完成し、1883年に鉄道建設に先立ってオビ川沿いに建てられたノヴォニコラエフスク(現在のノヴォシビルスク)の小さな町はシベリアの中心として巨大化してゆく。1898年、最初の鉄道がイルクーツクおよびバイカル湖畔に達した。ウスリー鉄道は1897年に完成し、ハバロフスクからアムール川、シルカ川を超えて西への鉄道も建設されていった。
サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士が鉄道建設に従事した。イルクーツクから60km東にある長さ640km、深さ1600mのバイカル湖が、沿線最大の障害物となった。バイカル湖の南端を迂回する支線が完成するまでの間、夏はイギリスから購入した砕氷船を使ったフェリーによる連絡、冬は湖上に線路を敷いて列車を走らせた。1901年、バイカル湖の区間を除いてシベリア鉄道は一応完成、日露戦争の最中1904年9月にようやく全線開通した。
なお、1896年にロシア政府は清国政府から、シベリア鉄道の短絡線として満州(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経由する東清鉄道の敷設権を得た。当初は1903年に完成した東清鉄道がシベリア鉄道のルートだったが、その後アムール川北岸(左岸)を通ってハバロフスク橋でアムール川を渡り、ハバロフスクを経由する国内線を1916年に完成させ、現在のルートが完成した。

1993.05.30


1993.05.30
ダービーで柴田勝つ、芽出度し。

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【今日は何の日】5月30日
▲最後の戦犯仮出所。「巣鴨プリズン」消える(1958)

巣鴨拘置所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
巣鴨拘置所(すがもこうちしょ)(旧字体で巢鴨)は、かつて東京都豊島区巣鴨(現在の巣鴨とは異なる。旧西巣鴨町、現東池袋)に存在した拘置所。通称は「巣鴨プリズン」、「スガモプリズン」(Sugamo Prison)。現在の東京拘置所の前身にあたる。

概要
第二次世界大戦中の1944年には、ゾルゲ事件の主犯とされるリヒャルト・ゾルゲ及び尾崎秀実の死刑が執行された。彼らのほか、当時の同拘置所には主として共産主義者等のいわゆる思想犯や、反戦運動に関わった宗教家等が拘置されていた。
第二次大戦後にはGHQによって接収され、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦犯容疑者が収容され、同裁判の判決後、東條英機ら7名を含む戦犯の死刑が執行されたことでも知られる。

来歴
• 1895年 警視廰監獄巢鴨支署が設置される。
• 1897年 巢鴨監獄と改称される。
• 1922年 巢鴨刑務所と改称される。
• 1937年 刑務所としての機能を府中刑務所に移管し、その後「巢鴨拘置所」と改称される。
• 1945年11月 GHQに接収される。「スガモプリズン」と呼ばれる。
• 1948年12月23日 極東国際軍事裁判の死刑囚7名に対する絞首刑執行。皇太子明仁親王(現在の今上天皇)の誕生日を敢えて執行日に選んだとされる。
• 1952年4月1日、日本に移管され「巣鴨拘置所」と改称される[1]。4月28日の講和条約発効。
• 1958年5月 GHQから返還される。東京拘置所と改称される。
• 1958年5月30日 米関係戦犯18名釈放され、全員釈放となる。
• 1966年 周辺の地名が東池袋となる。
• 1970年 東京拘置所が葛飾区小菅に移転され、小菅拘置所が東京拘置所と改称される。
• 1971年 建物が解体される。
• 1978年4月6日 拘置所跡地にサンシャインシティ開業。
• 1980年6月 平和の碑建立。

現状
跡地はサンシャインシティとして再開発された。
処刑場周辺は建物が建てられず、豊島区立東池袋中央公園となり、慰霊碑「平和の碑」が建立されている。

1993.05.29


1993.05.29
カンボジア選挙割りと平穏に終わる。あと内戦不可避から何とか成る迄予測色々。
クリントン支持率36%、歴代最低。
♥色キチ。女房の奮闘で馘を免れる。

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【今日は何の日】5月29日
▲オスマン・トルコが東ローマ帝国を滅ぼす(1453)

オスマン帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オスマン帝国(オスマンていこく、オスマン語: دولتْ علیّه عثمانیّه‎、ラテン文字転写:Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye)は、トルコ系の帝室オスマン家を皇帝とする多民族帝国で、現在のトルコの都市イスタンブルを首都とし、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナに至る広大な領域に及んだ(1299年 - 1922年)。
アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパのキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展するが、18世紀頃から衰退してその領土は蚕食されて急速に縮小し、挽回を図り対ロシア攻略を主目的に第一次大戦に参戦、しかし敗戦により帝国は事実上解体。20世紀初頭についに最後まで残っていた領土アナトリアから新しく生まれ出たトルコ民族の国民国家、トルコ共和国に取って代わられた。

歴史
オスマン帝国は、後世の歴史伝承において始祖オスマン1世がアナトリア(小アジア)西北部に勢力を確立し新政権の王位についたとされる1299年を建国年とするのが通例であり、帝制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年が滅亡年とされる。
もっとも、オスマン朝の初期時代については同時代の史料に乏しく、史実と伝説が渾然としているので、正確な建国年を特定することは難しい。

建国と拡大の時代
13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯であったアナトリア西北部にあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、遊牧民の集団であったとする説も根強いが、一般にはオスマンを指導者として結集したムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)たちであったとする説が有力である。彼らオスマン集団は、周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国 (Osmanlı Beyliği) を築き上げた。
1326年頃オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大した。ブルサはオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。
1346年、オルハンは東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスとの同盟をきっかけにダーダネルス海峡を渡ってバルカン半島のトラキアに進出、ヨーロッパ側での領土拡大を開始した。オルハンの子ムラト1世は、即位するとすぐにコンスタンティノープルとドナウ川流域とを結ぶ重要拠点アドリアノープル(現在のエディルネ)を占領、ここを第二の首都とするとともに、常備歩兵軍イェニチェリを創設するなど国制を整え、1389年にコソヴォの戦いでセルビア王国を中心とするバルカン諸国・諸侯の連合軍を破った。
ムラトの子バヤズィト1世は、1396年にブルガリア北部におけるニコポリスの戦いでハンガリー王を中心とした十字軍を撃破、領土を大きく広げた。しかし、1402年のアンカラの戦いでティムールに敗れて憤死し、バヤズィトの諸子の間で後継争いが起こって帝国の拡大は一時停滞した。
バヤズィトの子メフメト1世は、1412年に帝国の再統合に成功して失地を回復し、その子ムラト2世は再び襲来した十字軍を破り、バルカンに安定した支配を広げた。こうして高まった国力を背景に1453年、ムラトの子メフメト2世は東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略し、ついにビザンツ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノープルは以後オスマン帝国の首都となった。また、これ以後徐々にギリシア語に由来するイスタンブルという呼称がコンスタンティノープルに代わって用いられるようになった。
こうして15世紀末までにバルカンとアナトリアのほぼ全土を平定し、黒海北岸やエーゲ海の島々まで勢力を広げて黒海とエーゲ海を「オスマンの内海」とするに至ったオスマン帝国を1512年に継承した第9代セリム1世は、エジプトのマムルーク朝を滅してイスラム世界における支配領域をアラブ人居住地域に拡大し、またマムルーク朝の持っていたイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握してスンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲られ、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で史実ではないが、イスラム世界帝国としてのオスマン帝国がマムルーク朝の併呑によってひとつの到達点に達したことは確かである。

オスマン帝国の最盛期
第10代スレイマン1世のとき、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。
スレイマン1世は即位するとまずベオグラードを征服してハンガリー領に進出し、ロードス島でムスリムに対する海賊行為を行っていた聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国を破り、その大半を占領する。さらに東ではサファヴィー朝からイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。
またこれに前後してハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世と同盟し、1529年にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の都ウィーンを1ヶ月以上にわたって包囲した。第一次ウィーン包囲と呼ばれるこの作戦は失敗に終わったものの、オスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことは西欧諸国に強い衝撃を与えた。さらに、1538年プレヴェザの海戦では、スペインなどの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功した。そしてスレイマンはインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラー・ウッディーンの要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行ったという。 スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。
また、軍事構造の転換によって火砲で武装した歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が高まり、その人員が爆発的に増大して維持費が軍事費を圧迫し、かわって在地の騎士であるスィパーヒー層が没落していった。それに応じてスィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。
なお、スレイマンは同盟したフランスに対し、カピチュレーション(恩恵的待遇)を与えたが、カピチュレーションはフランス人に対してオスマン帝国領内での治外法権などを認めた。一方的な特権を認める不平等性はイスラム国際法の規定に基づいた合法的な恩典であり、カピチュレーションはまもなくイギリスをはじめ諸外国に認められることになった。しかし絶頂期のオスマン帝国の実力のほどを示すステータスであったカピチュレーションは、帝国が衰退へ向かいだした19世紀には、西欧諸国によるオスマン帝国への内政干渉の足がかりに過ぎなくなり、不平等条約として重くのしかかることになった。

帝国支配の混乱と衰退
スレイマンの死から5年後の1571年、レパントの海戦でオスマン艦隊はスペイン連合艦隊に大敗したものの、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、その国力は依然として強勢であり、また地中海の制海権が一朝にオスマン帝国の手から失われることはなかった。帝国艦隊は敗戦から半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌年にはチュニスを獲得した。
しかし、繁栄の裏ではスレイマン時代に始まった宮廷の弛緩から危機が進んでいた。1579年、スレイマン時代から帝国を支えた大宰相ソコルル・メフメト・パシャが暗殺されて以来、宮廷に篭りきりになった君主に代わって政治を支えるべき大宰相は頻繁に交代し、さらに17世紀前半には、君主の母后たちが権勢をふるって政争を繰り返したため、政治が混乱した。しかも経済面では、16世紀末頃から新大陸産の銀の流入による物価の高騰(価格革命)や、連年の戦役による軍事費の増大が財政を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発するに至り、帝国内は急速に動揺し始める。 そのような情勢の下で1645年に起こったヴェネツィア共和国との戦争は1656年、ヴェネツィア艦隊の海上封鎖を招き、物流が滞って物価が高騰した首都は、暴動と反乱の危険にさらされた。この危機に際して大宰相に抜擢されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾したが4年で急逝、その死後は息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、父の政策を継いで国勢の立て直しに尽力した。2代続いたキョプリュリュ家の政権は、当時オスマン帝国で成熟を迎えていた官僚機構を掌握、安定政権を築き上げることに成功する。先述したオスマン帝国の構造転換はキョプリュリュ期に安定し、一応の完成をみた。キョプリュリュ家の執政期にオスマン帝国はクレタ島やウクライナにまで領土を拡大し、スレイマン時代に勝る最大版図を達成したのである。
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿カラ・ムスタファ・パシャは功名心から1683年に第二次ウィーン包囲を強行する。一時包囲を成功させるも、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる欧州諸国の援軍に敗れ、16年間の戦争状態に入る。戦後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約において、史上初めてオスマン帝国の領土は削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われた。1700年にはロシアとスウェーデンの間で起こった大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデン王カール12世の逃亡を受け入れたオスマン帝国は、ピョートル1世の治下で国力の増大著しいロシア帝国との苦しい戦いを強いられた。ロシアとは、1711年のプルート川の戦いで有利な講和を結ぶことに成功するが、続くオーストリアとの戦争のために、1718年のパッサロヴィッツ条約でセルビアの重要拠点ベオグラードを失う。
このように、17世紀末から18世紀にかけては軍事的衰退が表面化したが、これを期に西欧技術・文化の吸収を図り、後期のトルコ・イスラム文化が成熟していった時代でもあった。中でもアフメト3世の大宰相イブラヒム・パシャ(在任1718年-1730年)の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化の円熟期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。しかし、1730年、サファヴィー朝の混乱に乗じて行われたイラン戦役が、ナーディル・シャーの登場でオスマン側に劣勢に動き始めると、浪費政治への不満を募らせていた人々はパトロナ・ハリルの乱を起こして君主と大宰相を交代させるに至り、チューリップ時代は終焉した。
やがて1739年のベオグラード条約でベオグラードを奪還し、1747年にナーディル・シャーが没すると戦争は止み、オスマン帝国は平穏な18世紀中葉を迎える。この間に地方では、徴税請負制を背景に地方の徴税権を掌握したアーヤーンと呼ばれる地方名士が台頭して、彼らの手に支えられた緩やかな経済発展が進んではいた。しかし、産業革命が波及して、急速な近代化への道を歩み始めたヨーロッパ諸国との国力の差は決定的なものとなり、スレイマン1世時にヨーロッパ諸国に与えたカピチュレーションを利用して、ヨーロッパはオスマン領土への進出を始めたのであった。

近代化をめざす「瀕死の病人」
18世紀末に入ると、ロシア帝国の南下によってオスマン帝国の小康は破られた。1774年、キュチュク・カイナルジャ条約によって帝国は黒海の北岸を喪失し、1792年にも再び敗れてロシアのクリミア半島の領有を認めざるを得なかった。改革の必要性を痛感したセリム3世は翌1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」を創設するが、計画はイェニチェリの反対により頓挫し、廃位された。かつてオスマン帝国の軍事的成功を支えたイェニチェリは隊員の世襲化が進み、もはや既得権に固執するのみの旧式軍に過ぎなくなっていた。
この時代にはさらに、18世紀から成長を続けていたアーヤーンが地方政治の実権を握り、ギリシャ北部からアルバニアを支配したテペデレンリ・アリー・パシャのように半独立政権の主のように振舞うものも少なくない有様で、かつてオスマン帝国の発展を支えた強固な中央集権体制は無実化した。さらに1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけにエジプトの実権を掌握したムハンマド・アリーは、1830年反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した。
一方、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、ギリシャ独立戦争(1821年 - 1829年)によってギリシャ王国が独立を果たした。これに加えて、バルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合い、19世紀のオスマン帝国を巡る国際関係は紆余曲折を経ていった。このオスマン帝国をめぐる国際問題を東方問題という。バルカンの諸民族は次々とオスマン帝国から自治、独立を獲得し、20世紀初頭にはオスマン帝国の勢力範囲はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになる。
オスマン帝国はこのような帝国内外からの挑戦に対して防戦にまわるしかなく、ヨーロッパから「瀕死の病人」と呼ばれる惨状を露呈した。
しかし、オスマン帝国はこれに対してただ手をこまねいていたわけではなかった。1808年に即位したマフムト2世はイェニチェリを廃止して軍の西欧化を推進し、外務・内務・財務3省を新設して中央政府を近代化させ、翻訳局を設置し留学生を西欧に派遣して人材を育成し、さらにアーヤーンを討伐して中央政府の支配の再確立を目指した。さらに1839年、アブデュルメジト1世は、改革派官僚ムスタファ・レシト・パシャの起草したギュルハネ勅令を発布して全面的な改革政治を開始することを宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制への転向を図るタンジマートを始めた。タンジマートのもとでオスマン帝国は中央集権的な官僚機構と近代的な軍隊を確立し、西欧型国家への転換を進めていった。
1853年にはロシアとの間でクリミア戦争が起こるが、イギリスなどの加担によってきわどく勝利を収めた。このとき、イギリスなどに改革目標を示して支持を獲得する必要に迫られたオスマン帝国は、1856年に改革勅令を発布して非ムスリムの権利を認める改革をさらにすすめることを約束した。こうして第二段階に入ったタンジマートは宗教法(シャリーア)と西洋近代法の折衷を目指した新法典の制定、近代教育を行う学校の開設、国有地原則を改めて近代的土地私有制度を認める土地法の施行など、踏み込んだ改革が進められた。
しかし、改革と戦争の遂行は西欧列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大から経済が西欧諸国への原材料輸出へ特化したために農業のモノカルチャー化が進んで、帝国は経済面から半植民地化していった。この結果、ヨーロッパ経済と農産品収穫量の影響を強く受けるようになった帝国財政は、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作が原因で破産した。
こうしてタンジマートは抜本的な改革を行えず挫折に終わったことが露呈され、新たな改革を要求された帝国は、1876年、大宰相ミドハト・パシャのもとで「アジア最初の成文憲法」と言われるオスマン帝国憲法(通称ミドハト憲法)を公布した。憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。
だが憲法発布から間もない1878年に、オスマン帝国はロシアとの露土戦争に完敗し、帝都イスタンブル西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許した。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結んで講和する一方で、非常事態を口実として憲法の施行を停止した。これ以降、アブデュルハミト2世による反動専制の時代がはじまるが、この時代は専制の一方で財政破産以降に帝国経済を掌握した諸外国による資本投下が進み、都市には西洋文化が浸透した。また西欧の工業製品と競合しない繊維工業などの分野で民族資本が育ち、専制に抵触しない範囲での新聞・雑誌の刊行が拡大されたことは、のちの憲政復活後の民主主義、民族主義の拡大を準備した。

世界大戦から滅亡への道
アブデュルハミトが専制をしく影で、西欧式の近代教育を受けた青年将校や下級官吏らは専制による政治の停滞に危機感を強めていた。彼らは1889年に結成された「統一と進歩委員会」(通称「統一派」)をはじめとする青年トルコ人運動に参加し、憲法復活を求めて国外や地下組織で反政権運動を展開した。
1908年、サロニカ(現在のテッサロニキ)の統一派を中心とするマケドニア駐留軍の一部が蜂起して無血革命に成功、憲政を復活させた(青年トルコ革命)。彼らは1909年には保守派の反革命運動を鎮圧、1913年には自らクーデターを起こし、統一派の中核指導者タラート・パシャ、エンヴェル・パシャらを指導者とする統一派政権を確立した。統一派は次第にトルコ民族主義に傾斜していき、政権を獲得するとトルコ民族資本を保護する政策を取り、カピチュレーションの一方的な廃止を宣言した。
この間にも、サロニカを含むマケドニアとアルバニア、リビアが帝国から失われた。バルカンを喪失した統一派政権は汎スラヴ主義拡大の脅威に対抗するためドイツに近づき、1914年に始まる第一次世界大戦では同盟国側で参戦した。
この戦争でオスマン帝国はアラブ人に反乱を起こされ、ガリポリの戦いなどいくつかの重要な防衛線では勝利を収めるものの劣勢は覆すことができなかった。帝国は1918年に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領された。
敗戦により統一派政府は瓦解、首謀者は亡命し、この機に皇帝メフメト6世は、専制政治の復活を狙って、連合国による帝国各地の占拠を許容した。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。この帝国分割の危機に対し、アナトリアでは、一時期統一派に属しながら統一派と距離を置いていた大戦中の英雄ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)を指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こり、アンカラにトルコ大国民議会を組織して抵抗政府を結成した。
一方連合国は、1920年、講和条約としてセーヴル条約をメフメト6世に押し付けた。この条約はオスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容だったため、ギリシャ軍のアナトリア進攻に正当性を与えたが、かえってトルコ人の更なる反発を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍に勝利し、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーヴル条約の履行を諦め、新しい講和条約(ローザンヌ条約)の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。1922年、ケマルは、オスマン国家の二重政府の解消を名目として、これを機にパーディシャーとカリフの分離と、帝政の廃止を大国民議会に決議させた。廃帝メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国政府は名実共に滅亡した(トルコ革命)。
翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、多民族帝国オスマン国家は新たにトルコ民族の国民国家トルコ共和国に生まれ変わった。トルコ共和国は1924年、帝政の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位を廃止、オスマン家の成員をトルコ国外に追放し、オスマン帝権は完全に消滅した。

1993.05.28


5月28日
1993.05.28
 近所に生協が移転新装開店、夜、女房と散歩がてら生協に行く。
♥生協も夜の10時迄営業する時代。昔、個人タクシーは日が暮れたら仕事を止めたが今では夜中に走る人も居る。

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【今日は何の日】5月28日
▲曽我兄弟の仇討(1193)

曾我兄弟の仇討ち
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曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。

経緯
所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。
祐泰の妻の満江御前とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。
祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。
文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。
箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。
建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
翌5月29日、五郎は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。五郎は従容と斬られた。
なおこの事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)。」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。

頼朝暗殺未遂説
工藤祐経を討った後で、曽我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとして兄が討ち取られ、このことは謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったのだという説が言い伝えられている。

曾我物語
この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。

備考
• 曽我兄弟の墓は現在、願成寺 (横浜市)の無縁仏の一群の横にひっそりと置かれている[要出典]。静岡県富士地域の地方新聞である富士ニュース5月21日号(掲載年不明)によれば関東から九州にかけて14ヵ所の墓所があるという[1]。その中で有力とされるものに、曽我の里と呼ばれる一帯にある城前寺(神奈川県小田原市曽我谷津)が挙げられる[2]。城前寺の由来は、曽我兄弟の死後に叔父の宇佐美禅師がこの地に兄弟の遺骨を運んで弔ったのが寺の興りとしている[2]。また、曽我十郎を討った新田四郎忠常の陣屋が置かれたという静岡県富士宮市の曽我八幡宮東側の丘の上にも、十郎が討たれたとされる地点に曽我兄弟の墓が建てられている[3]。1295年(永仁3年)成立だが、現存する五輪塔は江戸時代のものを復元している[4]。

1993.05.27


5月27日
1993.05.27
 東鉄の技術本部長が「のぞみ」の技術に自信有りと。鉄道事故が増えつつ在る。近頃の日本はQCが悪く成ったのか。

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【今日は何の日】5月27日
▲藤原定家によって小倉百人一首が完成(1235)

百人一首
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百人一首(ひゃくにんいっしゅ、故実読みはひゃくにんしゅ)とは、古来の代表的な歌人百人について、一人一首を選んでつくった詞華集のことである。現在の日本においては通常、その中でも、小倉百人一首と通称される、藤原定家撰による新古今期までの代表的な歌人百人について作られた私撰和歌集を指す。以下では、この小倉百人一首について詳述する。

異種百人一首
小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。以下に代表的なものを挙げる。
『新百人一首』
足利義尚撰。小倉百人一首に採られなかった歌人の作を選定しているが、91番「従二位成忠女」は小倉の54番・儀同三司母(高階貴子)と同一人物。また、『百人秀歌』に見える権中納言国信も64番に入首(百人秀歌とは別の歌)。
『武家百人一首』
同名の物が複数ある。
1. 17世紀半ばの成立と見られている。平安時代から室町時代にかけての武人による和歌を採録。寛文6年(1666年)刊。榊原式部大輔忠次の撰とされるが、本自体にはその旨の記述はなく、後に尾崎雅嘉が『群書一覧』で比定したものである。また寛文12年(1672年)、菱川師宣の挿絵、和歌は東月南周の筆で再刊された。菱川師宣の署名した絵入り本の最初とされ、絵師菱川吉兵衛と署名された。
2. 安政5年(1858年)刊。賞月堂主人の著。1.のものと比べると、23人が別人の歌に置き換えられている。
3. 明治42年(1909年)刊。富田良穂撰。神代から幕末までの武将・大名・夫人等の和歌を採録。
『新撰武家百人一首』
18世紀成立。伊達吉村撰。室町時代から江戸中期にかけての武将・大名による和歌を採録している。
『後撰百人一首』
19世紀初頭に成立。序文によれば二条良基の撰、中院関白顕実の補作とするが、後者の存在が疑わしいため成立年代は未定である。勅撰集だけでなく、『続詞花集』などの私撰集からも採録しているのが特徴。
『源氏百人一首』
天保10年(1839年)刊。黒沢翁満編。『源氏物語』に登場する人物の和歌を採録しているが、その数は123人。肖像をいれ、人物略伝、和歌の略注をのせる。和歌は松軒由靖、絵は棔斉清福の筆。
『英雄百人一首』
天保15年(1844年)刊。緑亭川柳撰。神代から室町期までの武人の和歌を採録。
『烈女百人一首』
弘化4年(1847年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首に対し、著名な女性の和歌を採録。
『続英雄百人一首』
嘉永2年(1849年)刊。緑亭川柳撰。英雄百人一首の続編で、平安から安土桃山時代までの武将・大名の和歌を採録。
『義烈百人一首』
嘉永3年(1850年)刊。緑亭川柳撰。平安から江戸初期までの武将やその夫人等の和歌を採録。
『女百人一首』
嘉永4年(1851年)成立。平安・鎌倉期の女流歌人の和歌を採録。
『義烈回天百首』
明治7年(1874年)刊。染崎延房編。幕末の志士等の和歌を採録。
『愛国百人一首』
第二次世界大戦中の昭和17年(1942年)に選定・発表された。恋歌の多い小倉百人一首に代わって「愛国の精神が表現された」名歌を採録した。

1993.05.26


1993.05.26
午前中に回覧板を副会長に配布。
中期国債ファンドが何時の間にか振込を10万単位だと。
仕事手順が変わったとかで作り直し。

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【今日は何の日】5月26日
▲第1回ル・マン24時間耐久レース開催(1923)

ル・マン24時間レース
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ル・マン 24時間レース(ル・マンにじゅうよじかんレース、仏24 heures du Mans )は、フランスのル・マン近郊で行われるカーレースである。24時間でどれだけ長い距離を走ることができるかを競う。
日本で「ル・マン24時間」と言うと、通常は一年の内で最も昼の長い毎年6月の初めから中頃に開催される自動車による耐久レースのことを指すが、現地では毎年4月にオートバイによる24時間耐久レースも開催されている。以下、自動車による24時間レースについて解説する[1]。また、ル・マン24時間耐久レースと記されることもある。

世界三大レース
フォーミュラ1のモナコグランプリとアメリカのインディ500と並び「世界三大レース」と呼ばれる。またデイトナ24時間レース、スパ・フランコルシャン24時間レースとともに「世界三大耐久レース」とも呼ばれる。1923年に初めて行われて以来中止されたのはコースが大改修された1936年(フランスの自動車工業界のストライキの影響とも言われる)と、第二次世界大戦の開戦により中止になった1940年から1948年[2]にかけての間だけである。
そして老若男女・国籍・普段走っているカテゴリーに関係なくさまざまなドライバーが参加し、現役ドライバーはもちろんスプリントレースで一線を退いたスター選手の走りも見ることができる。

開催地
競技は、フランス中部にあるル・マン市のサルト・サーキット[3]と呼ばれる全長13kmを超える周回コースで行われる。その殆どは一般道で、スタートおよびゴール地点とその周辺は競技専用のブガッティ・サーキットの一部を使用する。各ストレートやコーナーには「ユノディエール」や「ミュルサンヌ」、「テルトル・ルージュ」、「ポルシェカーブ」、「フォードシケイン」などの名称がついており、これらの名称は世界的に著名である。
サルト・サーキットの特徴といえばユノディエールという全長6kmに及ぶストレート(右のコース図で言う上のストレート区間)であったが、マシンの進歩により1988年には最高速が405km/hに達するなどしたため、安全上の問題から1990年に二箇所のシケインが設けられた(コースに独自性を持たせたいACOに対し、FIAが再三勧告をしたためである)。
尚、二輪のレースは「ブガッティ・サーキット」、四輪のレースは「サルト・サーキット」 と、ピットエリア周辺一帯は共用しているものの別のサーキットを使用し、各々区別している。

ル・マン式スタート
コースの片側に競技車を配置し、ドライバーはコースの反対側から駆け寄って乗車する。かつてこのレースにて1925年より用いられたスタート方法であり、その名前の由来ともなっているが、スタートを急ぐあまりシートベルトをきちんと締めないまま発進することが危険とされ、ル・マン24時間レースでは1969年限りで廃止された。 1970年はドライバーが乗車したままコースの片側に斜めに停止した状態から合図とともにスタートする変則ルマン式スタートとなったが、1971年からは一般的なローリングスタートとなった。ジャッキー・イクスはこのスタート方法に対し危険性を常々訴えており、他の選手がマシンに向かって走っていくのに対し、彼は歩いてマシンに向かって行き、きちんとシートベルトを締めてスタートすることでこのスタートへの抗議をしていたことがある。
現在では4輪車のレースではほとんど採用されておらず、むしろ2輪の耐久レース(鈴鹿8時間耐久ロードレースなど)にてよく見られるスタート方法になっている。
1925年から1927年までは「ドライバーが駆け寄って幌を上げてからエンジンを始動し走行し、20周経過までは幌を下げてはいけない」というルールだった。エンジン始動時の信頼性や自動車としての実用性を競う方法としては意味があったとも言える。

1955年の事故
1955年6月11日18時28分、トップを走っていた緑色のジャガーのマイク・ホーソーンが周回遅れのくすんだ緑のオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットイン。オースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが衝突を避けようと進路変更したところへ銀色のメルセデスを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに接触し乗り上げ、空中へ飛び上がった。ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解し炎上、衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客・スタッフ、そしてルヴェーも含めて86人が死亡、約200人が重軽傷という大事故となった。(注:当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットに於いても例外ではなく、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる)
なお、このレースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ことが続行の理由であった他、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ救急車が動けなくなる、といった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった。皮肉にも優勝者は大惨事のきっかけとなったマイク・ホーソーンであった。
この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。またルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行、コクピットからその一部始終を目撃したファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソンを左側から追い越し、さらに別の一台がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった‥。」と、模型を用いて解説している。ちなみに、事故後の調査でファンジオの乗ったメルセデスと、ホーソーンのにジャガーがごく僅かに接触していた事が判明している(メルセデスの車体にジャガーの緑色の塗装がこびり付いていた擦痕が残っていた)。ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避する事が出来た事を証明している。
メルセデス・ベンツチームはトップを走行していたが、事故発生の7時間半後、全マシンを呼び戻すと、そのまま棄権している。その後メルセデス・ベンツは1980年代後半に復帰するまで実に30数年間もル・マンひいてはモータースポーツから遠ざかることとなった。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マン24時間レースに姿を見せることはなかった。事故後メルセデス・ベンツチームはマシンを直ちにピットに召還し、即座にサーキットを去っている。また、事故後大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していた事が確認されている。これに関しては後に規定違反を隠蔽する行為なのではという声が上がっていたとされる。
モータースポーツの安全性という点で大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランス・イタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはレースそのものが禁止される[4]など全世界に大きな影響を残している。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。メルセデス・ベンツ自体も、それ以来30年余りに渡ってサーキットから姿を消す事となる。
尚この事故の詳細を記した書籍として、「死のレース -1955年ル・マン」(マーク・カーン著、二玄社刊)という書籍が存在する。事故から20年後に事故の当事者の一人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後のそれぞれの動向、さらにメルセデスチームがレギュレーション違反を行っていたのではないかとの疑義などが明らかになっている。
1999年のレースに於いてもメルセデス・ベンツは、前年たった2時間で全滅した屈辱を晴らすために投入したAMGメルセデスCLRが、予選、フリー走行、そして決勝と三度に渡って宙を舞う事態に見舞われ、1955年の悪夢再びか、と騒がれた。そしてそのまま、メルセデスはル・マンから再び姿を消してしまう。
事故の当事者の一人であったランス・マクリンは、その後モータースポーツの世界を離れていたが、2000年頃にこの世を去っている。

2010-05-25


1993.05.25
回覧板の文案打ち込む。

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【今日は何の日】5月25日
▲富士山噴火(864)

富士山の噴火史
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富士山の噴火史(ふじさんのふんかし)では、富士火山の噴火の様子と変遷を概説する。
富士山は高さと山体の大きさに於いて日本最大の活火山である。富士山は最近10万年で急速に大きく成ったと考えられており、その意味では「若い火山」に分類される。現在見えている山の外観は約1万年前から噴火活動を開始した新富士火山であり、その下に約70万年前から活動していた小御岳(こみたけ)火山と約10万年前から約1万年前に噴火した古富士火山が存在する。

新富士火山以前の活動
約10万年前まで、小御岳火山
• 富士山の周辺一帯は数百万年前から火山活動が活発であったことが知られている。その中で約70万年前、現在の富士山の位置に小御岳火山(こみたけ)が活動を始めた。その頃は南東にある愛鷹山(あしたかやま)の活動も活発で、二つの大きな活火山が並んでいた。現在この火山の頭部が富士山北斜面5合目(標高2,300m)の小御岳付近に露頭している。
約10万年から約5000年前まで、 古富士火山
• 小御岳火山が暫らく休止した後、約10万年前から新たな活動時期に入った。この時期を古富士火山と呼ぶ。古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、大量のスコリア・火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000mに達する大きな山体を形成していった。古富士火山の山体は宝永山周辺等富士山中腹にかなり認められる。
約11,000年前に噴火の形態が大きく変わり、その後約2,000年間は断続的に大量の溶岩を流出させた。富士山の溶岩は玄武岩質で流動性が良く遠くまで流れる傾向がある。この時期に噴火した溶岩は最大40kmも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達しており、長距離を流れた日本の代表的な溶岩流である。
• 氷河期と泥流
富士山周辺の調査では、古富士火山の時代には火山泥流が頻発した事が判明している。当時は氷河期で、最も寒冷化した時期には富士山における雪線(夏季にも雪が消えない地帯の境界)は標高2,500m付近にあり、それより高所には万年雪または氷河が存在したと推定されている。山頂周辺の噴火による火山噴出物が雪や氷を溶かして大量の泥流を発生させたと推定されている。
• 関東ローム層
東京周辺には、関東ローム層と呼ばれる褐色の細かい砂質の土が広がっている。これは古富士火山から飛んできた火山灰が主体の土である。同時期には箱根山も大量の火山灰を大規模に噴出させていたが、箱根の火山灰は白っぽく、古富士火山の火山灰は褐色なので見分けが付く。
• 溶岩主体に移行
約11,000年前に噴火の形態が大きく変わり、その後約2,000年間は断続的に大量の溶岩を流出させた。富士山の溶岩は玄武岩質で流動性が良く遠くまで流れる傾向がある。この時期に噴火した溶岩は最大40kmも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達している。長距離を流れた代表的な溶岩流を示す。
• 山梨県大月市まで流れた猿橋溶岩
• 愛鷹山の北から東へ回りこんで南下し、現在の三島駅周辺に達した三島溶岩

新富士火山の活動
古富士火山の溶岩流のあと約4,000年間平穏であったが、約5,000年前から新しい活動時期に入った。現在に至るこの火山活動を新富士火山と呼ぶ。新富士火山の噴火では、溶岩流・火砕流・スコリア・火山灰・山体崩壊・側火山の噴火などの諸現象が発生しており、「噴火のデパート」と呼ばれている。また新富士火山の火山灰は黒色である事が多い。新富士火山の噴火は地層的にも新しく、また8世紀以後には日本の古文書に富士山の活動が記載されており、噴火について貴重なデータを提供している。
諸説あるが、古記録によれば新富士火山の噴火は781年[1]以後16回記録されている[2]。噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に10回程度、1511年等に噴火や火映等の活動があった事が複数の古文書の分析や地質調査から明かとなっている。一方、文書によっては、1560年頃、1627年、1700年に噴火活動があったとされているが、信頼性は低い。また噴火の合間には平穏な期間が数百年続くこともあり、例えば1083年から1511年まで400年以上噴火の記録がないが、記録文書が散逸し残されていないだけで、噴火活動自体が無かったとは断言出来ない。実際に、1435年~1436年には火映が記録されている。

略年表
約3000年前
• 縄文時代後期に4回の爆発的噴火を起こした。これらは仙石スコリア(Sg)、大沢スコリア(Os)、大室スコリア(Om)、砂沢スコリア(Zn)として知られている。富士山周辺は通常西風が吹いており噴出物は東側に多く積もるが、大沢スコリアのみ東風に乗って浜松付近まで飛んでいる。
約2300年前
• 富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ流下した。これは御殿場泥流と呼ばれており、この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当する。山体崩壊が発生した原因は現在の所特定されていないが、崩壊当時顕著な噴火活動が見られない事もあって、富士川河口断層帯ないし神縄・国府津-松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説が出されている。
781年 (天応元年) 噴火
800年~802年(延暦19年)
• (旧暦)3月14日から4月18日にかけて噴火。延暦大噴火
「日本紀略」の記述では、
自去三月十四日迄四月十八日、富士山巓自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也
802年(延暦21年)
• 1月8日 この噴火により相模国足柄路が一次閉鎖され、5月19日から翌年の5月8日までの1年間は、筥荷(箱根)路が迂回路として利用される事になった。
駿河国富士山、昼夜恒燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘災殃
五月、甲戌、廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也
864年(貞観6年)
• 貞観大噴火 864年6月~866年初頭にかけて活動青木ヶ原溶岩を形成した噴火で、北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す噴火を起こす。
『日本三代実録』の記述では、5月25日付の報告として
富士郡正三位浅間大神大山火、其勢甚熾、焼山方一二許里。
光炎高二十許丈、大有声如雷、地震三度。歴十余日、火猶不滅。焦岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。大山西北、有本栖水海(みずうみ)、所焼岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺。
(ここでいう1里は6町=約650m。「~許里」は「~里ばかり」の意。
7月17日分の報告として
駿河国富士大山、忽有暴火、焼砕崗巒、草木焦殺。土鑠石流、埋八代郡本栖并剗両水海。水熱如湯、魚鼈皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。両海以東、亦有水海、名曰河口海;火焔赴向河口海、本栖、剗等海。未焼埋之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉。
とある。
「剗の海(せのうみ)」は富士北麓にあった広大な湖の名だが、この時の溶岩流により埋め立てられ、水面の大半を失った。埋め立てを免れた西端部、東端部は後に精進湖、西湖として知られる事となった。流れ出た溶岩は一帯を広く覆い、「青木ヶ原溶岩」を形成した、その後この溶岩の上には新たに森林が形成され、現在では「青木ヶ原樹海」の通り名で知られている。
937年(承平7年) 噴火。
• 現在の河口湖と富士吉田市の間に有ったとされる「御舟湖」を埋め、剣丸尾第1溶岩を噴出させた噴火とされる。
「日本紀略」の記述では承平7年旧暦11月某日の条に、
甲斐国言、駿河国富士山神火埋水海
999年 (長保元年) 噴火
1033年初頭 (長元5年末) 噴火
1083年 (永保三年) 噴火
1435年または1436初頭 (永享7年) 噴火
1511年 (永正8年)  噴火
1704年 (元禄16年末~17年初頭) 鳴動
1707年
• 12月16日(宝永4年)旧暦 11月23日 宝永大噴火
詳細は「宝永大噴火」を参照
大量のスコリアと火山灰を噴出。この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、江戸市中まで大量の火山灰を降下させる等特徴的な噴火であった。
1708年 (宝永5年) 鳴動
1923年 (大正12年)あらたな噴気
1987年 (昭和62年山頂のみで有感地震

宝永大噴火以降の活動
宝永大噴火後、富士山では大規模な火山活動は無かったが、江戸時代晩期から、昭和中期にかけて、山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動が存在した。
この活動は1854年の安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、明治、大正、昭和中期に掛けての期間、荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動が存在した事が、測候所の記録や登山客の証言として残されている。
この噴気活動は明治中期から大正にかけて、荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされる。活動は昭和に入って低下し始めたが、1957年の気象庁の調査においても50℃の温度を記録していた。その後1960年代には活動は終息し、現在山頂付近には噴気活動は認められていない。
しかしながら、噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたとの記録も存在する。以上のように、富士山がつい近年まで噴気という火山活動の諸形態の一つを続けていたという事実は、富士山が現在も息づいている活火山である事の証拠である。

地震との関係
宝永大噴火は宝永地震の49日後に発生している。南海トラフや相模トラフを震源とする地震や、近隣地域の地震の前後25年以内に富士山を変化させる何らかの活動が発生しており、活動とは関連性があると考えられる[3]。また、噴火活動と連動した活動ではないが、1331年の元弘地震(M7)や1792年、1891年美濃地震では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生した事が記録されている。

1993.05.24


1993.05.24
竹内、仕事の呑み込み良し。

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【今日は何の日】5月24日
▲独眼竜政宗、没。70歳(1636)

伊達政宗
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伊達 政宗(だて まさむね)は、戦国時代の武将。出羽国(羽州)と陸奥国(奥州)の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祀られる。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、また、戦国屈指の教養人として、豪華絢爛を好むことで知られていた。諱の「政宗」は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかったもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。

政宗は豊臣政権時代から、隙あらば天下を簒奪しようと何度も策略していたとされている。
• 秀吉の小田原征伐のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた蘆名氏領土の「経略多端」の故と弁明している。佐竹氏一派と対抗し、同盟関係にあった後北条氏と手を結んで秀吉を倒そうとした。秀吉は、伊達氏を従えて奥州仕置を行なった。また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。
• 葛西大崎一揆を扇動して、密かに領土拡大を狙ったという説がある。
• 関ヶ原の戦いのとき、和賀忠親を扇動して南部利直の領土を侵略しようとしたが失敗した。
• 政宗の裏切りに対して家康は報復し、刈田郡のみの加増にとどめた。これは東軍参加の武将の中では加増の伸び率が最も少ない部類である。
• 政宗の関ヶ原直前の所領58万石は度量衡改定以前の1反360歩で計算されたものという説があり、これが正しいとすると豊臣政権において定められた1反300歩で計算した場合、67万石にまで上昇する。また仙台平野には開墾に適した三角州などの土地が多数存在し、当初から土地には余裕があった。政宗は関ヶ原以降、開拓地を知行として与える方式を取りら各領主に開墾を奨励、仙台平野の新田開発を推し進めた(寛永5年(1628年)には、白石城主片倉重長が新田開発を行い1000石相当の石高を新たに獲得している)。この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した。寛文年間以降は藩自らが主動した新田開発も行われた。100年後の江戸時代中期には実高200万石とも謳われる日本最大級の藩に成長した[25]。政宗が江戸に廻送を始めて以降、江戸に供給される米の大半は仙台の米となり、作の豊凶は江戸の米相場を支配するほどであった。最盛期には表高の1/3にあたる20万石もの米が江戸に出荷されていた。享保17年(1732年)には、西国の蝗害により江戸で米価の暴騰が起こり、例年の倍以上の米が出荷されたとある。なお、このときの収益は約50万両にものぼったという。この豊かさは広く知られており、安井息軒の『読書余滴』に「二百万石余」、帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある[26]。
• 政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。支倉常長はローマとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している。また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。
• テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた。
• 常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔が多数存在する。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている。
• 政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたとされる。
• 元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候。
(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)
• 大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし。
(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)
– 『東奥老子夜話』より抜粋
• しかし、政宗と親密であった徳川家の家臣、大久保長安が死後に一族もろとも処罰され(大久保長安事件)、娘婿の松平忠輝(家康の六男)が改易され、スペインとの同盟が不調に終わり、倒幕は実現されなかった。
• 幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。
• 寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。
• 徳川秀忠は寛永9年(1632年)1月に死去したが、このとき秀忠は政宗を枕元に呼び、次のように述べたと『政宗公御名語集』にはある。
• 年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候。
• (家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州討伐のための軍を起こそうとしていた)
• 晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。「馬上少年過、世平白髪多、残躯天所赦、不楽是如何。」というものであり、前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまず是如何に(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う2通りの解釈ができてしまう。政宗自身がどちらともとれるように作ったとも言われているが[誰?]、政宗の残した大きな謎となっている。
• 仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。彼は「あと20年早く生まれていれば……(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。
その一方で、家光の代においては「かつては天下を狙っていたが、今は家光を支える立場である」という事を示す逸話が見られる。
• 家光の就任の宣言は「祖父、父とは違い、自分は生まれながらの将軍であるから、大名方は今後は臣従の礼をとるべきだ。異論があるならば国へ帰り戦の準備をされよ」という大変威圧的なものであった。政宗はこれに対し「政宗はもとより、異論のある者などおるはずがありませぬ」と即座に継ぎ、その場の皆が平伏したとされている。この家光の発言は政宗の助言によるものだったとも、あるいは幕閣が政宗に予め根回して即座に返答するよう依頼したとも言われている[要出典]。
• 家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、以後下宿を行わなくなったという。

1993.05.23


5月23日
1993.05.23
 米の日本少年射殺に無罪。
♥銃は米国の文化だとアメ公、それなら人権無視は中国の文化であり、賄賂行政はアジアの文化である。

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【今日は何の日】5月23日
▲コペルニクス、地動説発表(1543)

ニコラウス・コペルニクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名:Nicolaus Copernicus、ポーランド語名:ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、宇宙が太陽を中心として回転している、と唱えた天文学者である。さらに、教会では律修司祭(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。ドイツでナチスが勢力を誇っていた時代は、彼がポーランド人かドイツ人かが大きな論争の的となった(コペルニクスの国籍論争)が、現在は「多民族国家ポーランド王国の国民(国籍はポーランド人)で、この地方のドイツ語の方言を母語とする家系(民族はドイツ人)の人物(すなわちドイツ系ポーランド人)」ということで落ち着いている。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な再発見とされる。また、この発見はその後の多くの人に影響を及ぼした。

人物伝
コペルニクスは、1473年にトルンで生まれた。トルンは1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。民族的にはドイツ人だったといわれる。ただし、当時は民族よりも都市(Thornisch‐トルン市民)や国籍(Polnisch‐ポーランド国民)が重要視される時代であった。ポーランド=リトアニア同君連合王国は国民国家ではなく、ポーランド王に従う多民族国家(大統領を元首に頂く現在のアメリカ合衆国のようなもの)であったため、ポーランド人、リトアニア人、ドイツ人、チェコ人、スロバキア人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ラトビア人、エストニア人、タタール人などが民族に関係なく暮らしており、ポーランドの市民権を持っている人は皆「ポーランド人」であった。王国内の共通言語はラテン語とポーランド語でありクラクフ大学で大学教育を受けたことからコペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。
10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラ・ヴァッツェンローデ(Barbara Watzenrode)は既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ(Lucas Watzenrode)が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。
ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後にヴァルミア (Warmia) の領主司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス (Andreas) は東プロイセンのフラウエンブルク(Frauenburg、現:フロムボルク)のカノンとなり、妹バルバラ (Barbara) はベネディクト修道院の修道女となった。他の妹カタリーナ (Katharina) は市の評議委員だったバルテル・ゲルトナー (Barthel Gertner) と結婚した。
1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、天文学者のアルベルト・ブゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらに化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。4年と少しの間トルンにいたあと、イタリアのボローニャ大学で法律(ローマ法)について学んだ。教育に援助をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでいたが、カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラ(Domenico Maria Novara da Ferrara)と出会い、その弟子となった。
やがてノヴァーラの影響により地動説に傾倒し、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。ただしコペルニクスは惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎないともされる(実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、ヨハネス・ケプラーにより発見された)。
迫害を恐れた彼は、主著『天体の回転について』の出版を1543年に死期を迎えるまで許さなかった(彼自身は完成した書物を見る事無く逝ったと言われている)。死後はポーランドのフロムボルク大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。シュチェチン大学などのチームが2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。 この遺骨は2008年11月、肖像画と頭蓋骨が似ていて、時代と年齢もほぼ一致し、コペルニクスの毛髪とされる物とのDNAの一致によりコペルニクスの遺骨と認定された。

「天体の回転について」とローマ教皇庁
1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書「天体の回転について」は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、聖書に反するとされたためである。ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。

主な業績
• 1510年頃 「コメンタリオルス」(Comentariolus、同人誌)
太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。
• 1528年 『貨幣鋳造の方法』(Monetae Cudendae Ratio)
経済学でいうグレシャムの法則を提唱した。
• 1543年 『天体の回転について』[1][2](De Revolutionibus Orbium Coelestium)
コペルニクスの主著。地動説を元に、実際に星の軌道計算を行った。

元素名
超アクチノイド元素のひとつ、原子番号112の元素はコペルニクスにちなんで "copernicium"(コペルニシウム)と命名された。この新元素名 "copercinium" は2009年に発見者であるドイツの重イオン研究所 (GSI) により提案された。その後 2010年の2月19日、コペルニクスの誕生日に合わせて IUPAC(国際純正・応用化学連合)から正式名として発表された[3]。その発表文の中では、コペルニクスが考えた太陽系のモデルが、ニールス・ボーアによる原子モデルに通じると述べられている。

1993.05.22


1993.05.22
♥望月信太郎氏死す。
花巻へ技術講習出張に行って会計を担当した先輩。父と同じく逓信講習所出身。

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【今日は何の日】5月22日
▲ワットが新発明の蒸気機関の特許を取得(1775)

ジェームズ・ワット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェームス・ワット(James Watt, 1736年1月19日 - 1819年8月19日)はスコットランドの数学者、エンジニアである。凝縮機、調速機、変速機の発明など蒸気機関の改良をおこない産業革命の進展に貢献した。

生涯
ワットは、1736年にスコットランドのグノーリックで機械職人の子として生まれた。産業革命の中で育ったワットは、14歳の時にロンドンにでて、機械製造業を学んだ。機械職人として働こうと思うが、ギルド制度にはばまれ、開業ができないでいた。そこで、ロンドンの化学器具製造会社で1年間修行に励み、1757年にアダム・スミスのはからいで、グラスゴー大学構内で実験器具製造・修理店を開業した。ここでニューコメン型蒸気機関と出会い、より効率のよい蒸気機関をつくるため、熱と力の関係を研究する。そして、シリンダーを2つ持ったワット式蒸気機関を考案した。当時、グラスゴー大学には物理学教授のジョゼフ・ブラックがおり、彼から熱力学について学ぶ機会があった。物理学実験の授業用のニューコメンの蒸気機関の模型修理を行うことを通じ、これまでの蒸気機関における問題点、改良点を見抜いた。
従来のニューコメン蒸気機関は、生成された熱の1%程度しか動力に転換できなかった。ワットは、まずシリンダーから冷却機を分離した蒸気機関を発明することに成功し、より多くの熱を動力に転換できるようにし、1769年に支援者のローバックと「火力機関において蒸気と燃料の消費を減少させるためにあらたに発明された方法」で特許を取得。その後、新たな協力者マシュー・ボールトンと1774年にボールトン・ワット社を作り、ワット式蒸気機関の製造を開始。その後も蒸気機関改良は進められ、1781年に遊星歯車装置の特許を取得。翌1782年に複動機関、89年に遠心調速器、91年にボール調速器を開発している。
ワットの功績は、蒸気機関の改善のみではなく、蒸気機関の出力を表わす単位として「馬力」(ワット)という単位を作っている。(なお、この単位が設けられたのは、ワットに対する特許料支払い基準を作る必要があったからである。)また、複写インキの発明も行った。1819年、産業革命が一層進展し、イギリスが「世界の工場」と称される繁栄へ向かう中、ワットはバーミンガム近郊のヒースフィールドで死去した。

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